その昔、沢内村(現・西和賀町沢内)は南部藩の隠し田の地でした。
天保の大飢饉が村を襲い、年貢米はもちろん、飢えを凌ぐにも困難だった年、困り果てた村人が年貢米の代わりにお米(およね)という娘を藩公に差し出しました。
そうして村は救われましたが、お米は帰ってきませんでした。
その娘の献身を偲んで建てられた石像が「およね地蔵」で、沢内の浄円寺境内に祭られています。
沢内村は、奥羽山脈のふところ深く抱かれた山間の村で、沢内三千石といわれるほど広い領地をもった米の産地でした。
しかし三千石というのは平年の出来高で、これが冷害などになると平野部の出来高が1割減なのに対し、山間の村という厳しい気象条件から半分ほどに減ってしまいます。
いくら不作の年でも課せられる年貢は平野部とほぼ変わらなかったため、そのような年にはとても苦しい思いをしたのでした。
「沢内年代記」によると、天保の大飢饉のときの凶作は特に甚大で、生活は窮乏を極めた凄まじいものだったと伝えられています。
ホシナ(大根葉の乾燥したもの)と根花(わらびの澱粉)で命をつないだ者はまだいいほうで、藁を食べ、雪解けを待って草の根を掘って食べるという悲惨なものだったのです。
年貢を納められなくなった村人たちは、沢内代官所に年貢の減免を嘆願しました。
すると代官は、村の娘を側妻(そばめ)として差し出すよう求めてきたのです。
名主たちは困り果てましたが、最後の相談をし、殿様に娘を上げ申すこととしました。
そこで名前が挙がったのが、新山部落の吉右ェ門家の娘・およねでした。
なんの不自由もない総本家の娘が殿様に上げられるという話が伝わると、遠方の分家や親戚などから猛烈な反対の火の手が上がりました。
もちろん、本人も両親も容易に首を縦には振りませんでした。
連日連夜にわたり相談が続けられた、そんなある日のこと。
「殿様に仕えるごどはありがでえが、お倉米の代わりなど人身供養だから、本家の大恥だ。だれァ何たって承知こがね」
「それも考え方だ。おらの本家の娘こァ沢内を救ったとなれば、分家の爺だって肩身広く道路あるぐごとにもなるべ」
そんなやりとりを聞いていたおよねは、元気に満ちた、そして晴れ晴れとした声で言い出したのでした。
「おらァ思い切ったでァ。えぐ(行く)気になった。人ァ一度は死ぬんだォなに」
誰一人、何も言える者はいませんでした。
大きないろりには薪がどんどん燃えて、車座に座っている人たちの顔を照らしていました。
彼岸の頃のかくしの吹雪が時々窓に吹き付ける音のみで、深夜のいろり端には、咳一つする者はいませんでした。
そして、かしき座の隅に座っていたおよねの母の微かなすすり泣きの声が、人々の胸を強く痛めるのでした。
「沢内三千石 お米の出どこ
枡ではからで 箕ではかる」
沢内甚句は、このような歌いだしで始まります。
「お米」はおよね、「箕(み)」は身と言葉にかけ、我が身をもって村の窮地を救ったおよねの悲哀が歌われています。