清吉稲荷は、沢内の長瀬野地区にある、明治35年に建てられた古民家です。
当時の沢内村職員で、深澤晟雄旧村長による生命尊重行政を支えた高橋清吉さんとその家族が暮らしていたことと、裏手に稲荷神社が祭られ、高橋家がその別当となっていたことから、清吉稲荷という愛称で親しまれてきました。
地区の集団移転に伴い、昭和46年以降空き家になっていましたが、村が中心となって保存会を結成し、維持管理してきました。
道路に面した看板の裏側に、由来についての説明文がありました。
だいぶ文字が消えかかっていましたが、何とか判読してみました。
沢内村は深澤晟雄村長から現在に至るまで一貫して生命尊重を第一義として村政を行い僻地開発の第一線に立って努力してきた。
乳児死亡率ゼロ達成、乳児十割給付を全国にさきがけて行い、其の実施の導火線となった。 其の一環として分散家屋をまとめるための画期的な集落の移転を行った際、沢内村の典型的構造を有する本家屋は、前保健課長高橋清吉氏宅で、村当局が保存会を設置して其の存続をはかることとし「清吉稲荷」と命名された。 昭和五十年十一月三日 清吉稲荷保存会 沢内村長 太田祖電 |
体験学習の受け入れの場などに活用されながら保存されてきましたが、老朽化が著しく維持が困難となったため、西和賀町が2014年度中の解体を決定。
しかし、同家屋に関心を寄せた台湾の財団法人から移築の申し出があり、町が無償で譲渡することとなりました。
台湾への移築のニュースが報道された翌日、清吉稲荷に向かうと、近くで草刈をするお母さんに出会いました。
話を聞くと、20歳で結婚するまでここに住んでいた方なのだとか。
運良く、中を見せていただくことができました。
玄関を入ると、足元には藁打ち石のある土間が広がります。
見覚えがあるはずもないけれど、何故か懐かしいような、「ただいま~!」と言いたくなるような雰囲気。
左手の戸を開けると、何とも味がある常居(居間)が広がります。
一部は改築されていますが、太い木の梁や柱、戸板など、見るもの全てに歴史の重みを感じます。
「昔は、兄弟みんなで学校に行く前に床板拭きをさせられたのよ。日曜日には壁や戸板も」
何年経ってもツルツルな戸板を撫でながら、そう話してくださいました。
裏手の戸を開けると、遠くには和賀岳が見えます。
視界を遮るものがないその眺めも、自慢の一つなのだとか。
「昔はね、和賀岳に雪が積もっては消え、また積もっては消え、それを3回繰り返すとこの辺にも根雪が降るようになると言われてきたの。」
先人からの知恵は、今も言い伝えられてきています。
こちらでは、土間の脇に馬屋を設け、農耕馬を飼っていたそうです。
別棟ではないところから、いかに馬を大事にしていたかが伺えます。
神棚の脇には、馬に履かせていたわらじが飾られていました。
戸には、猫用の通り穴。
「家の中をねずみがしょっちゅう走り回ってね。梁の上から落ちてきたりもしたのよ。だから、それを捕まえる猫も大事にしていたの。」
いろいろなお話しを聞くたびに、当時の生活の様子が目に見えてくるようでした。
馬屋があった場所は現在物置になっており、昔の農具やいろいろな道具が置かれていました。
回転式の草取り機や大きなのこぎりなど、なかなかお目にかかれないようなお宝がいっぱいです。
表に出ると、近所や親類の方が清吉稲荷を訪れてきていました。
皆で懐かしそうに、昔話に花を咲かせている様子を見ていると、この家屋がいかに皆から愛されていたかがよくわかります。
台湾の財団の方が西和賀入りし、今週より移築に向けた解体が始まりました。
なくなってしまうのは寂しいのですが、異国の地で第2の人生を送ることができるのは素晴らしいことでもあると思います。
移築しても、皆から愛されるシンボルとなるといいですね。
(さとう)